なんのために生きるのか

以下は自分自身へ「なんのために生きるのか」への問いに対する回答。
こんな感じの世界観で生きています。

そもそもなんのために生きるのか?

なるべく長く愉しむために生きる。

そのためには…中庸の思想で在ること、というか「根本原理」を理解し実践していることが重要であるわけだ。そうなってくると…「既にそこに在る」意識がキモになる。

そこに在ることで長く愉しめるのが方向性のひとつのわけだ。

みんな人生のゴールは「死」である。その過程をどうするのか、だけが許された自由。

その自由を謳歌するためには「死」が一旦のゴールであることを忘れない。

ただ、これは物質的な肉体の話しであって魂の話しではない。また、魂も「肉体の魂」「心の魂」がある。それぞれの役目がある。

生を受けている、というのはまず、「肉体の魂」のカルマをある程度満たすこと。

また、このカルマは「持続型」と「時限型」がある。前者は常に抱えている執着は癖のようなモノで向き合い続けることでどんどん捨てていくことができる性質のモノになる。

後者の「時限型」は人生においての特定のタイミングで現れる出来事に近い。

だいたいは「他者」を巻き込んだエピソードになる。両者と向き合い、手放すことが「肉体の魂」のカルマを晴らすことになる。

「心の魂」の観点からみると、そもそもカルマを体験することそのものが目的である。

ただ、役にのめり込みすぎるような感覚で、しばしば「肉体の魂」の観点と競合し、本質的な自我。つまり真我と勘違いすることが特に現代人に多くみられる。

ここの「勘違い」がおきるから、自分軸がわからなくなる。何がしたいのか分からない。創造性が働かない。本質的な自我、真我を思い出すことが生きやすくなるキモになる。「勘違い」をなくす。

そのためにはまず「内なる声」に耳を傾けることからはじめる。高尚なものじゃなくても良い。「トイレに行きたい」「眠い」「お腹すいた」からはじめる。そして、聴いた上で即座に行動に移すこと。どんな状況でもなるべく「内なる声」に従うこと、そうするとだんだん日常的に「肉体の魂」の声がきこえてくる。最初はいわゆる三大欲求系がほとんどだが、だんだんと「この姿勢はイヤだ」「ここが疲れている」「ここは居心地が良い」などがわかるようになってくる。

「社会人」や「大人として」という集合意識の呪いに強く罹っていると、本当に難しいく感じると思われる。本質的には、ただ感じて、感じたままに行動をするだけ。迷うことすら享受する。

この心がけで良い。

こういった日々を丁寧に、丁寧に折り重ねること。そうすると、やがて「内なる声」がキチンとキャッチできるようになる。

はじめは、まるで臍を曲げているかのように、沈黙を続けることもある。だが、辛抱強く向き合うこと。今まで「内なる声」を無視し続けていたことの、償いをしているような気持ちで臨むと良い。「内なる声」が当たり前に聴けるようになれば、やるべきこと成すべきことが「降ってくる」。こうして本当の意味での「自分軸」がみつけられる。

答えははじめから、一番身近にある。

旧約聖書にある一説。「神は自らに似せて人を作った」そして、満足して安息日とした。

神道において。参拝する際の正面には鏡が置いてある。それは鏡に映る自分が神。つまり「かがみ」から「が我」を取り除くと「かみ」に成る。つまり、自分自身と出会うことが「参拝である」とも示しているわけだ。

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